MEMORY創業者の想い
新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。
28歳の時「独立の覚悟」を決めました。
村櫛の「庄屋」という裕福な家庭に生まれたものの、あらゆる事情により小学校6年生の時、自分の生まれ育った家は人手に渡ることになりました。この時の寂しさや辛さは今も忘れられません。だから、将来は「絶対自分の力で何かを成し遂げられる人になろう」と決心したんです。
サラリーマン時代は、静岡県農協販売連の仕事に就きました。果物や野菜の販売担当で、すいかの季節には、日本のすいかの流れを調べるために東京神田の市場に一ケ月通いつめたりもしたんですよ。
とはいえ、その頃の農協団体の生活の派手なこと!農家のおぼっちゃんばかりの集まりで、このままでは給料はすべて小遣いでとんでいってしまう。「自分の描く将来像とは違う」と背広を脱ぐ覚悟を決めました。ちょうど28歳の時でした。
風間新聞店での経理の仕事を経て、毎日新聞社の鞄持ちで県内を回りました。
サラリーマンを辞め、職業安定所に行くと市役所の税務課を勧められました。約半年勤めたものの、自分には向いていないと退職。次に紹介されたのが、掛川最大手の風間新聞店。 面接に行くと、まっ先に見せられたのが経営状態が決していいとは言えない「帳簿」。「君はこれを見て何を思う?」と問われ、即答したのが「よくこれで店をやっていけますね」と皮肉まじりの生意気な言葉。が、事実をそのままに言葉にできる実力を買われ即採用。
約5年間の日々は「新聞店とは意外と面白い仕事だ」と感じ、「利益を生むことも自分ならできるかも知れない」「定価販売だから安定している」。新聞店としての仕事への思いは強まりましたね。風間新聞店での仕事ぶりを認められて、毎日新聞社から誘いを受けました。静岡県内の販売店を回っている毎日新聞社担当員の補助。つまり鞄持ちをしながら、県内の新聞店をくまなく観察。
合売店の中には帳簿のない店もあり帳簿のつけ方を教えたり、毎日新聞本社とのとりひきの仕方まで学んだり…。
すべてのノウハウを体全体で習得するいい機会でした。
周囲の反対を背に、「絶対モノにしてみせる」と柳原新聞店の誕生へ。
当時の新聞店といえば、新聞社の直営店と自営店が入り乱れている時代でした。そんなある日、浜松で毎日新聞販売を手掛けていた今喜多新聞店の廃業の話が飛び込んできたんです。迷うことなく引き継ぎを決意しました。
当時、市内の販売部数は、読売新聞1万2千部、朝日新聞1万部、毎日新聞7千部、中日新聞3万2千部という中で引き継いだ数字は、毎日新聞1038部というわずかな部数。現在の六間道路沿い、追分交差点角から2件目に店を構え、「絶対この店をモノにしてみせる」と決意しました。
その為には何が必要か。社員がまとまる「団結」、負け犬にならない「闘志」、必ず店は大きくなるという「自信」、お客様に好かれる人になろうという「誠意」をわずか8名の社員の前で語りました。そして、皆で仲良くやろう、と話しました。
周囲からは「柳原新聞店はもっても3ケ月。よく引き継いだものだ」と言われる始末。でも私には大成功できる作戦があったんですよ。