MEMORY創業者の想い
新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。
3月3日、晴れ。忘れもしない開店初日の出来事。
借金をして、当時の私にとっては莫大なる金額を納めました。毎日新聞社と、そして今喜多新聞店との契約を終え、引き継いだ新聞は毎日新聞、静岡新聞、スポーツニッポン、そして日本経済新聞…のはずが、初日に届いた新聞に日本経済新聞はありませんでした。「どうして?なぜ?という思いと、どうしようもない悔しさが込み上げて…」。
日本経済新聞の販売権利は、様々な裏策の中で、順路帳と共に他店に移っていた。やけになり、飲めない酒を飲み…。その時「よし、日経なんてなくてもやってみせるぞ」と心に誓いましたね。
初日、無事朝刊の配達を終えた時、従業員の一人が来て「おやじさん、ちょっと顔をかせや」。
静大の前の飲み屋さんに行くと8名の従業員が揃って私を待っていました。「あんたみたいな若僧には、この店はやれっこないんだよ」。そして「店主が代わったのを機に、今から賃上げを要求する。一人一万円(今でいえば約10万円)を給料に上乗せして欲しい。それが無理なら今からストライキに入る!」と鋭い言葉。今喜多新聞店から続く従業員は、40歳代後半から60歳代の集まりに対して、私は34歳。怒りや驚きを押さえ、淡々と話しました。
「今日、初めて皆と顔を合わせた。要望もよくわかった。でも、まだ皆の能力もわからない、家庭も知らない。そんな中で賃上げの要求を出してくるというのは無茶な話じゃないのか?」。そして、「私からの条件をまず守って欲しい。それが嫌なら今すぐ辞めてもらって構わない。代配の10人や15人を頼む力が私にはあるんだから」。力強く答えましたね。
僕を信じてくれる人だけが残ってくれれば、それでいい。
他の販売店主はどこも県外や市外の人ばかりでした。でも私は今、浜松で初めての『純粋なる地元生まれ』の販売店主となったんです。
「私はどこの店主よりも浜松のことを知っている。私を信じてくれる人だけが残って欲しい。この店を絶対成功させてみせるから」と語りました。すると「わかった。おやじさんのやり方をみせてもらおうじゃないか」。穏やかな言葉を受け、皆でお酒を飲み交わしました。
お店を出た時には、すでにお昼を過ぎていましたよ(笑)。
浜松初の「トラックと、バイクによる配達」を導入。
従業員とは常に現場を共にしました。当時は貨物で届く新聞を皆で浜松駅まで取りに行ったんですよ。自転車の荷台に新聞を積み、六間の坂を上り、店へ戻る…その効率の悪さにはがく然としました。
すぐにオート三輪を購入し、翌年には配達用のオートバイを購入、どれも浜松では初の導入でした。
毎日、全部のチラシを重ねる役目をこなし、従業員の昼の用意をし、台所には常に一升瓶を置いておく…。
私が何の相談もせずに始めた店でしたが、家内(すず子夫人)は黙々とやってくれました。すべては従業員が働きやすいように、との心遣い、嬉しかったですね。
そして、私は仕事の合間に従業員の家庭を訪問し、皆を知るよう努めました。彼らは、少しずつ私たちを信頼してくれている様でした。
「店を潰さない為には、お客様を増やすしかない」。思いを廻らせ高台地区を歩いてみると、他店の目の行き届いていない区域があったんです。そこで、どこもやっていない『集団拡張』に挑戦しました。
「1人より2人で、2人より3人で、各地区を攻めようよ」と私が言うと「いいじゃん、やろう!」。皆の威勢のいい声が頼もしかったですね。