MEMORY創業者の想い
新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。
柳原本店に北部店。続いて野口店。集団拡張の成果は着実に表れていましたが、この時期は昭会長、すず子夫人にとって、一番大変な時代だったと言えるのかもしれません。
東方面、その狙った先は『近藤紡』。
昭和40年4月、中央アカマ新聞店より浜松東エリアの「顧客を引き継いでほしい」との話が舞い込んできました。「柳原を大きくしたい」と夢に突き進んでいた時の「願ってもない話」。
アカマ新聞店の社員をそのままに、翌月、野口店を開店させました。
当時の東エリアは、読売販売店が独占。その中に入っていくには『営業』でお客さんを増やすしか手はありませんでしたね。当時は、どの新聞店も、仕事とは新聞を「配達する」ということだけ。引き継いだ社員も、もちろん同じ考え。営業の大切さをじっくり教えました。そんな中、目をつけたのが「近藤紡」。中日新聞店が守衛所だけに配達していましたが、なんとしてもうちが入り込みたい。私が総務課に出向き、また労働組合にお願いして、寮や社宅への配達を確保。
これで100件の拡張に成功しました。
当時の新聞店とは…。
昭和40年代は高度成長期の時代。『青田刈り』で、働き手は皆工場に行ってしまう。まさに柳原は『金もない、人もない』 という苦しい時代でした。
そんな時、新居の鈴木新聞店から「この子を育ててくれないか」と高校を中退した少年を預ることになりました。また、高丘の中学を出たばかりの少年、静大の夜間に通う青年、そして人手不足により依頼した新聞社からの代配要員。我が家には常時6人程の従業員が住み込みで働いていました。
若い彼らには、仕事を教えるだけでなく、自分の将来にどんな希望をもって生きるか、と語りかけました。新聞店での仕事は人生の通過点でも構わない、と。
社会人としての姿勢を学んでくれて、1人は日立へ、そして遠州鉄道へ、遠州米穀へと就職していきました。今も元気な姿を見せてくれます。わが子のようなものですよ(笑)。
順調だったはずなのに、突然の入院。
従業員の清水保君の自宅を改築した野口店も、清水夫婦の『顔』で飲み屋街は制覇(笑)。また、従業員の小粥君は、野口町に多く住む小粥一族を拡張。柳原は、順調に大きくなっていったように思います。
時代と共に団地も増えてくると、営業の手段も、激しい争いになる。引っ越しトラックが交差点で信号待ちした地点で営業を始めたりして(笑)。皆と働く日々は楽しかったですよ。
そんな時、家内からは「4時間の生活だ」と言われました。早朝2時に起き、紙取り、配達、そして日中は営業…。睡眠時間はいつも4時間の毎日だったんです。
突っ走ってきた生活に疲れが出たのか、ある日突然40度以上の発熱が1週間以上も続きました。日本脳炎と診断され救急車で鴨江の隔離病舎(当時)へ回されたんですよ。
一ヶ月の入院中は家内がすべてを切り盛りしてくれました。住み込みの従業員の世話から本店と2つの支店の管理、折込み作業…。
「その日の報告」を兼ねた毎日の見舞いに、一度だけ「なんでこんなに大変なんだろう」と弱音を吐いたことがありました。がむしゃらに働いたあの頃、家内に掛けた苦労は並大抵のものではなかったと今でも思っています。
結局、髄膜炎ということが判明。毎日新聞の担当員が「明日からオリンピック。日本脳炎じゃないのなら早く出ろ」と病院の許可も得ずに退院(笑)。忘れもしない、東京オリンピック開幕の前日でしたね。
産経新聞の取り扱いも始まり、昭和44年北部乙店開店。さぁ、朝日新聞店の弱点が見えていた区域への進出を始めました。