MEMORY創業者の想い

新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。

創業者の想いのイメージ

第5回(平成16年9月号)

病に倒れ、すず子夫人に店を任せた時期があったものの、昭和44年には4店目となる北部乙店(現初生店)開店。 現在、初生店に勤務している伊藤志づゑさん宅の軒先を借りて始まったという当時を振返ります。

必ず伸びると予測して。

交通の便が悪く、他の新聞店も大して営業に力を入れず、普及率の弱い「初生」への進出を始めました。

新聞配達を終えると、市の「都市計画課」へ出向くという私なりの調査が日課に加わりましたね。そして、初生は必ず伸びると予測したんです。東名西インター近く、発達し始めた金指街道、自衛隊の官舎…。好条件が並ぶこの地域を、見逃すわけにはいかなかったんです。農地から、宅地に代わる情報を市役所から得ると、すぐ拡張に動きました。

そして、もう一つの成功要因は「地元に住み、地元を知った、人脈のある人に働いてもらいたい」と、すべて地元の人で揃えた4名の従業員。

自衛隊官舎も、従業員の一人が自衛隊三佐の奥さん。彼女の「顔」で約4割の拡張に成功。初生店は「地域と関わりのある従業員の皆に助けてもらった店」だったんですよ。

夫婦で働ける職場を目指して。

自宅軒先を貸してくれた伊藤さん夫婦に片岡さん夫婦、平岩さん夫婦、杉浦さん夫婦…と各支店の主任を任せた人たちは、ほとんどが夫婦、家族で働いてくれました。

旦那さんが働く姿に「私も手伝う」と協力してくれ、店はどんどん大きくなりました。 まだまだ、女性が社会に進出する時代ではありませんでしたが、「男も女も仕事をやる上では関係ない」と、男女平等の待遇で迎えました。「夫婦で働き、家族が豊かになって、立派な家庭を作って欲しい」というのが私の願い。そうすれば、仕事にもゆとりができるんですよ。

その後、多くの女性従業員が入社し、大きな力として、今も頑張ってくれるのは嬉しいことです。

開店5年目、増紙13倍に達した静岡新聞。

開店当時は「よく引き継いだものだ」と言われましたが、5年目の増紙率は、毎日新聞2.9倍、静岡新聞13倍、スポニチ16倍。静岡新聞が増えた理由は、価格が安いこと・拡張の成果、というだけでなく、新聞社側の紙面改革がなされたことも大きなきっかけでしたね。

当時、連日カラー面のある新聞は静岡新聞のみ。その見やすさ、読みやすさが好評を得ました。「良い新聞を売りたい」と皆で注いだ情熱が功を成し、着実に成果を表し、読者からも認められる新聞になれたことは私たちにも大きな自信となりました。

柳原が強い地域と、そのわけ。

弥生団地の誕生を睨んでの富塚店に続き、野口店、三方原店と店を広げました。特に三方原地域は、8割のシェアを独占しましたね。初生店に続くエリアを三方原店が引き継ぐという形で…。

他店が目もくれない広い三方原の町は、120件配るのに2時間を要するという効率の悪さ。でも「将来は必ず開ける。今は犠牲を払ってでも…」と自分に言い聞かせました。

まだまだ、目指す「読売新聞店」には及ばない時代でしたが、自信を持って「強い」といえる地区は、三方原町、豊岡町、神ケ谷町。すべて、地元で生まれた従業員が地元で働き、拡張の「基盤」を作ってくれた結果なんですよ。

繰返し訪れる寒さの厳しい冬。東京の問屋街で見つけたヤッケは暖かそうでした。フードを被って紐を結べば風を防げる。胸には順路帳を入れるのにちょうどいいサイズのポケットも付いている。少しでも暖かく…と従業員全員のヤッケを購入して浜松に戻りました。

「皆喜んでくれるかな」。順調に大きくなる店に、従業員への感謝の想いは深まるばかりでした。