MEMORY創業者の想い
新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。
六間道路沿いに開店した柳原新聞店。他店が目もくれない北部に2店目を出すと、続いて野口、初生、富塚…。傍目には順調過ぎるほどの成長を描いていたものの、その陰には「お金の工面」という最難題が常に襲っていたのです。
手元にあった資金は70万円。
掛川の風間新聞店を退職し、今喜多新聞店から販売店を引き継ぐと決意した時、私個人の全財産は当時のお金で70万円。お酒を飲むわけでもなく、毎日コツコツと貯めたお金でした。
新聞店を引継ぐには、前任者に部数に掛る「営業権」を支払うんです。静岡新聞代16万5千円、毎日新聞代66万円を今喜多さんに支払いました。その上、各新聞社には「保証金(新任金)」が必要。静岡新聞社に6万円、毎日新聞社には70万円を揃えなくてはならない。
若さだけが取り柄の中で、家内の実家から、友人から、親戚から、育ての親から…。「私を信じて貸してほしい」と頼みました。当時としては、私にとっても相当大きな額でしたよ。
新聞社への期日の納金が苦しくて…。
毎月新聞社にお金を納めるんですよ、売り上げの約7割を。でも、お客様からの新聞の集金はそんなに簡単に集まるものではない。だから、納める日が来ても手元にはお金がないんですよ。「お~い、お金借りにきたよ」って、毎月毎月出掛けました(笑)。県内の新聞店を回っていた時に世話をした販売店が、今度は私を応援してくれて…。
そんな月日が5年以上続いたある時「本当に佐野を相手に戦えるのか?」と言われました。「金が無くなって、潰されて、穴捲って逃げるんじゃないだろうな」って。「絶対やってみせるから!」と答えたものの、内心はドキッとしました。
でも、自分の中では、浜松の企業の中で、「新聞販売業」だけ地元生まれの経営者がいないというのはおかしい。なんとしても自分が成功してやろう、という思いがいっぱいで。
あっ、借りたお金は、集金が終わるとすぐ返済に行きましたよ(笑)
桃栗3年、柿8年。そして柳原10年。
いろいろな諺がありますよね、桃栗…とか、石の上にも3年とか。私自身も数年で会社は作られると目論んでいました。
が、実際は一人前になるのに10年、黒字経営が見えてきたのは20年目を迎えた頃でした。 一番苦労したのは「人手がない」こと。どんなに頑張りたくても働き手が新聞屋に来ないのですから。でも、次第に従業員が定まり、購読数も増えて。安定するのに10年の辛抱ということでしたね。
今でこそ好きな服を買いますが、当時はいつも社員と同じジャンバー姿。贅沢はしませんでしたよ。社員と同じ行動をしよう、皆兄弟だ、という気持ちを忘れないで仕事に携わろうと決めていましたから。
どんなにお金がなくても「柳原に身を置いてくれる従業員に苦労は掛けたくない」。給料の未払いや遅滞は絶対しない、と言い聞かせていました。 でも、社員もお金の無さは気付いていたと思います(笑)。
江崎、清水、そして柳原、3社長の勉強会。
やっとゆとりも出た昭和50年代、県内最大手の江崎新聞店社長、清水市最大手の清水新聞店社長と勉強会を始めました。10年もの間続いたでしょうか。議題はいつも「将来の新聞店とは」。
江崎さんは『請負制』、清水さんと私は『給料制』。「社員制度の充実」が私の意見でした。労災、休業制度等を確立し、毎日系の専売店に勤めるとこんなに良いことがある、と皆に感じてもらいたいと思ったんです。 配達時間の限度とは?普及率の高い地域と低い地域での従業員の賃金の差はどうしたらよいか?等々。小さな問題もトコトン意見を出し合いました。
新聞店を「一つの企業に育て上げたい」との思いが自分の中で益々強まっている時でした。
名古屋寄りの街、浜松。
東部は東京寄りの街、中央は駿河の国として役人・サラリーマンの街。そして浜松は職工の街・企業の街。地域の特徴を捉え、営業一つをとっても、三者三様のやり方があることを学びましたね。
特に浜松は、新聞普及率も悪い上に『中日新聞』の勢力が絶大な街。営業に出掛けても、ドア越しに返される言葉は「静岡新聞って何?」とそっけない。まずは『静岡新聞』という名を浜松の人に知ってもらわなくては…と考えました。
他店が目もくれない地域を探し出し、茶畑、山間僻地も隈無く営業を繰返す。次第に『静岡新聞』の購読者が増えてくるのは喜びでしたね。